ルポ西成 七十八日間ドヤ街生活

ルポ西成 七十八日間ドヤ街生活

こんにちは、空間デザイナーのナカザワフミです。

今日は先日読んだ國友公司さんの著書『ルポ西成 七十八日間ドヤ街生活』の感想文です。
私の生まれ故郷にも少し近い環境のリアルな日常が描かれた本で、タイトルを見かけた瞬間とても気になり、読んでみることにしました。

1.そもそもドヤ街とは?

『ドヤ街』と聞いて、すぐにピンッと来る人の方が世の中には少ないように感じてはいるので、まずは簡単に説明。
『ドヤ』とは『宿(ヤド)』の逆さ言葉で、日雇い労働者が多く住む簡易宿泊所が立ち並ぶ街のことをこう呼んでいます。

元々は戦後から高度成長期において、たくさんの労働力が必要になった建設関係の工事に従事する働き手を集めるために栄えた街で、簡易宿泊所の他にも仕事を斡旋するためのハローワーク的な施設もこの街の中にあります。

この当時の日雇い労働といえば『3K=きつい、汚い、危険』の代表格的な仕事で、超が何個つくかわからないぐらいのブラック労働でした。そのため、『こんなところは人が住むところでは無い』ということを自嘲的に揶揄したことが、宿(ヤド)を逆さまに呼んだことの始まりと言われています。

また、この街の界隈で建設関係の仕事を取り仕切るのはヤクザと呼ばれる暴力団関係者。親分格ともなると頭の切れる人ばかりで無闇やたらに騒ぐことは無いとは聞きますが、その子分の子分のそのまた子分…のような人たちとなると、何かというと喧嘩をしたりイキッていたりと、それなりに荒っぽい人たちも多く、全盛期はとてもカオスで、もはや危険しか無いような治安の悪い地域でした。

2.私とドヤ街との関係性

今回読んだ著書の舞台でもある大阪市西成区あいりん地区も含めて『日本の三大ドヤ街』と呼ばれている地域があと2つあります。まず1つは神奈川県横浜市の寿町周辺、そしてもう1つが東京都台東区の山谷と呼ばれる地域で、この山谷地区を隔てる商店街から徒歩10秒ぐらいの場所に我が実家があります。

『何でこんなところに定住したのだろう?』と疑問に思ったこともありますが、私のひいお爺ちゃんが戦時中に福島から出て来た時にそう決めてしまったので仕方が無い。そんな山谷のドヤ街が生活と密接している場所で二十数年すこやかに過ごして来ましたが、幼い頃には一般的にはこれが普通では無いということを知る由もありませんでした。

一番最初に『ここ、普通じゃ無いんだ』と自覚したのは、高校の友人たちを実家に招いてお泊まり会をした時のこと。最寄駅から家までの道のりにはこの山谷地区の中を通らなければいけない部分があります。そこは昼間からお酒を飲んでクダを巻いている人や、酔い潰れたのかよからぬものを吸った結果なのかで道端に寝転がっている人などがそこら中にいるのが日常の光景で。それを目の当たりにした友人たちの恐れ慄く姿を見れたおかげで、普通の環境には無い風景なんだと自覚することが出来ました。

私が実家に住んでいた期間ではそこまで多くは無かったとは思いますが、どこかで銃声がしたり、目の前にあるスナックの客が口論の末に刺されて実家のシャッター前に転がっていたり、この地区の真ん中にある公園のトイレで亡くなってる人がいたりなどの経験も何度か。

最近よく知り合いに『あなたはどんな人に対しても、色眼鏡なく同じように接するよね』と言われることがあったのですが、こういった地域で幼少期を過ごして来たことがだいぶ影響してるのでは無いかと自分では推測しています。

そういったわけで、日本各地のドヤ街や世界でスラム街と呼ばれるような場所には、自然と惹かれるものがあります。危険な場所でもあることは存じ上げているので一定の距離を保ちつつではありますが、何となく定期的に定点観測してしまっているなぁ…と自分でも感じることがあります。

3.そろそろ本題、著書を読んでの感想

自分語りの前置きが長くなりましたが、そんな感じで私にとっては身近な環境であったドヤ街ですが、それだけ近くに身を置いていたとは言え、やっぱり独特な雰囲気を醸し出す地域でした。常に警戒態勢!…で生きるのは疲れてしまうし、住んでしまえば普通ではあったのですが、わざわざは通らない道や一般住民は足を踏み入れない公園、お店などもすぐ近くにあり、二十数年暮らしていても、表向きに誰でも見られる部分にしか触れては来れなかったように思っています。

そんなドヤ街に七十八日間、1人の日雇い労働者として暮らした著者の國友さんがその目で見たこと感じたことが、大きな脚色なく、ありのままに描かれているんだろうなと読んでいて感じました。

國友さんと交流のあったドヤ街で暮らす人々との会話や、労働場所や寝泊りをしていたところで体験したことが、淡々とした語り口で描かれているので、読み始めは誰かがプレイしたRPGの冒険の書を読んでいるような、どこか架空の物語のようにも受け止めていました。ドヤ街で暮らす人たちはみんなもれなくキャラが立ち過ぎています。國友さんの文章は、そのそれぞれのキャラクター説明が上手で、その人物像が想像しやすかったことがそう感じさせたのかもしれません。

ただ、読み進めるにつれて、私が山谷地区周辺に住んでいた時に感じたこととリンクする部分も増えて来て、どこか他人事ではいられず、半分ぐらい読み終えたところで、何だか酷く落ち込みかけたような感覚もありました。

ドヤ街と呼ばれる地域は、様々な過去を持ち、行き場を失った人たちが自然と流れ着く場所。その中には元ヤクザに元犯罪者、ドラッグ常習者などなど、法に触れまくるようにしか生きる術の無かった人たちも多くいます。かつては肉体労働者の街でしたが、今ではその時の労働者が軒並み高齢化。身寄りも無く、病歴や犯罪歴があったり、薬物やギャンブルなどに依存していたりと、様々な理由で行き場を失った人たちが、ドヤ街というカゴの中で自分の居場所を求めながら暮らしてます。そこに住う人々の人間模様はとても緻密で複雑で、たとえ権力を持った人でも、その絡み合ったものを綺麗に整えることは到底無理なんじゃ無いかとさえ思います。

「なんのために生きるのか?」と私たちはよく考えるが、別に何かのために生きなきゃいけないなんて一体誰が決めた?

國友公司『ルポ西成 七十八日間ドヤ街生活』,彩図社,2018年10月,118ページ

上記は本の中の一節にある國友さんの言葉。この言葉を受けて、『もうちょっと肩の力を抜いて生きても良いか』という気持ちと、『まだ生きる意味を語るには何も出来ていないんじゃ無いのか』という気持ちが入り乱れました。ドヤ街という場所だけに限らず、自分の代わりはいくらでもいるこの世の中で、それでも『生きる』って何なんでしょうね。

西成には、西成の男たちにしか見ることのできない境地というものがあるのだと、私は感じる。自分を捨ててしまうといった感情だ。自暴自棄と言えばそれまでだが、彼らは自らのその“どうしようもない運命”を受け入れながら生きている。

國友公司『ルポ西成 七十八日間ドヤ街生活』,彩図社,2018年10月,239〜240ページ

ドヤ街で暮らす人々はみんなそれぞれに、別の誰かを演じながら生きているようでした。お世辞にも立派だとは言えないこれまでの自分の歩んで来た道のりを悔いてのことなのかどうなのかはわかりませんが、自分では無い何かを演じ続けることは、過去の過ちの数々から目を背けたい気持ちのあらわれなんじゃないかとも思います。

そうやって生きていてもその過去が無かったことになることは決して無いこともわかっているけれど、そうでもしていないと、見えない何かに押し潰されてしまうのかなって。

自分はまだここに来るような人間ではない。この街にいる人間を見下していると言えばそうかもしれないし、逆に私のような人間がこの街にいること自体、恐れ多いような気もするのだ。

國友公司『ルポ西成 七十八日間ドヤ街生活』,彩図社,2018年10月,240ページ

上記は著書を締め括る言葉です。私も最後まで読み、西成のドヤ街での七十八日間の生活を終えた時の國友さんと同じ気持ちになりました。

来るもの拒まず去るもの追わずな各地のドヤ街は、足を踏み入れようと思えばすぐに踏み入れられる場所ではあります。そこに行くことを選択することも人生だけど、そこに行かないように抗うこともまた人生。自分はどちらを選択するのか、客観的に観察し続けたいと思います。


淡々と状況や感情の説明がされているのでサラリと読み進めることは出来る本です。ただ、少しずつじわじわとえぐるようにMPが減っていくような感覚もあります。最後まで読み終わった今、だいぶお腹いっぱいです笑。

これまでの人生の中で『ドヤ街』という社会に触れて来たことの無かった方が読んだら、どんな感想を持つのかも少し気にはなったり。ドヤ街におけるリアルな現実を覗いてみたくなったら、ぜひ精神が安定している時に読んでみてください。


ルポ西成 七十八日間ドヤ街生活 著者:國友公司

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