【自分が今、傷ついている状態だ】ということに自覚を持つこと、正直、私は苦手です。
物理的な傷なら目に見える形で認識できる分いくらかマシですが(それでも自分のことだと平気ぶるけれど)、心理的な傷は目にも見えず、相手に伝わるように言葉で説明することも上手く出来ないので、自分の心を守るために身につけた悪しき習慣として『その傷を無かったことにする』ことを選びがちだったように思います。
その心の中の傷を自分自身で認めてあげて、その時にしっかり傷ついて、その時にちゃんと落ち込むことにも訓練が必要なんだなぁ…と、ようやくそこまでは気付けるようにはなって来ましたが、まだその渦中にいる最中に自分の傷を自覚することには慣れていません。
自分の身に起こったことで感じた悲しみや憤りに蓋をすることの方が簡単に出来てしまうのは、自分が元から持っている性格的な要因と、小さい頃からこれまでに過ごして来た中で起こった出来事からそうなってしまったんだろうとは思います。そうやって長い年月をかけて熟成されてしまった考え方や、瞬間的にとってしまう防御反応を変えていくことは、とても体力も気力も使うことで、すぐに変えることは簡単なことでは無さそうで。でも、どこか心の中で『このままじゃ良く無いんだろうな』と感じているから、たまに遭遇する大なり小なりな外的な要因に起因するトラブルを目の当たりにする度に、1人で悩み続けるんだろうなぁとも思います。
その当時にヘルプを出して、手を差し伸べてくれる人もいれば、逆に全ての罪を押し付けてくる人もいたり、直接の行動は無くとも静かに心を寄せてくれる人もいれば、他人事な人もいたりと、反応がいろいろだったこともあってか、表に出すことでそれ以上悲しむぐらいならと、自分の中にとどめておくことが多くなったようにも思います。『可哀想な被害者』と思われたくないという小さなプライドもどこかにあるんだろうなって。
せめてもの報いとしてかどうかはわからないけれど、身近な誰かが悲しみや憤りを感じたことを目にした時、耳にした時には、その当人以上の怒りや呪いを、悲しんでいる人の前で伝えられるようにはなってきました。それが果たしてその人にとってプラスになることなのか、ただただ鬱陶しいだけなのか、はたまたマイナスになっているかどうかはわからないけれど、自然とそうしたくなった時はそう出来るようにはなったように思います。そうやって誰かにしていることの中には『自分が助けを求めた時にしてもらいたかったこと』が私の場合は少し混ざっているようにも感じています。
そうやって身近な人にしてあげたいことを、一番身近な人でもある自分に対しても向けてあげられるようになれたらなと。それが個人的な密かなチャレンジです。楽しい時や嬉しい時に思いっきり笑うのと同じように、悲しい時やツラい時に思いっきり怒ったり泣いたりすることも、いくつになっても大事なことだと思っています。