2025▶︎2026

2025▶︎2026

こんにちは、空間デザイナーのナカザワフミです。
2025年も終わりが見えて来たので、毎年恒例の振り返りなどをしてみたいと思います。

この年末の振り返りも今回で6回目。
また今年も日々感じたことをその都度書くという方法を選んだので膨大な量の文章です。毎度毎度ダラダラとすみません。

ご都合の良き時に読んでもらえたら嬉しいですが、ご無理なくご賞味いただけたら何よりですー。

目次

10年経って思うこと

個人での活動をし始めて今年で丸10年が経ちました。
経ったからといって急に、見えている世界がガラリと変わるわけでは無いことも知れました。

急に大きく変わることは無いけれど、だからと言って日々の小さな積み重ねを疎かにすると、その何年後かに訪れる、実感としてわかりやすい変化、点と点が線になった…のような感覚には繋がっていなかったんじゃないかと感じることもゼロではありませんでした。

『デザインして欲しい』という依頼の内側には、『これからも長く続けたいから』という依頼者さんの気持ちも含まれているようにも感じています。なので、今の私が頼まれていることは、私自身がそこそこ長く続けられているからこそ、受け取ってもらえている部分も多くあるんじゃないかとも思ったりもしています。

…と言っている数分後には『もう辞めたい』と頭をよぎること山の如しな毎日ですが、そうやってブレがあった方が強いとビルや橋などの耐震構造から学んだので、ゆらゆら揺れる乙女ゴコロとも、また今後も付き合っていけたらと思います。

スケジュールはどうにかなるとわかった

正確には『どうにかなる』というよりも『どうにかしないといけない』という心地よいプレッシャーから来るどうにかなるですが(まわりくどい)、事前に決めた『これ大丈夫かな?』な予定でも、終えてみれば案外とどうにかなっていることばかりなような気がしました。

今の私の生活の中ではクライアントワークの占める割合が多いので、急な変更などにも対応できるようにと、だいぶ余裕を持ったスケジュール確保をすることがこれまではほとんどでした。ただ、そういう考え方ももう少し緩めても良いのかなと最近は思えるようになってきました。

今も関わり続けてくれている周囲の人たちがとても協力的なおかげが1000%ぐらいであるので、そのことに甘えすぎないようにも気を付けつつ、興味のあること、新しく取り入れてみたいことなどの、自分の欲望を満たすための予定もちみちみと日々の生活に混ぜ込んでいけたらなと思っています。

第三者↔︎身内のはざま

だんだんとお付き合いが長くなって来た方々も増えて来ていて、そうなってくると関係の境界線も曖昧になり、自然と距離が近くなるのだなという感覚も最近は感じるようになって来ました。

そのむにゃむにゃとした曖昧さが面白いなぁーという気持ちと、境界線をハッキリさせたい気持ちが秒単位で変わる変わる。そんな荒波のような情緒を乗りこなしきれていないことも多いですが、変にどちらかに決め付けすぎなくても良いのかな?と思えるようにはなれた気がします。ようやくグレーゾーンを許容出来るようになってきた。大人になったな。

その時々やお相手によっても関わり方の距離感の心地よさは変わるのも自然なことなので、自分の心地よさだけを押し付けすぎず、お互いにとっての『ちょうど良い』を探っていけるようにはしていきたいです。

上手くいっていない時でも機嫌が良い人が周りに増えた気がする

これ、最近とても憧れている所作。
恐らく自分の中にはドロドロとした感情や憤りなどもゼロでは無いんだろうと思うし、1mmぐらいはドロドロ感情あって欲しいという勝手な期待もありますが、それを周りには見せない人が私の周囲に増えたような気がしています。

上手くいってる時に機嫌良く生きられるのはイコールで繋がるので納得感があるけれど、上手くいっていない時でも機嫌良く振る舞えるのって、相当な工夫や努力が必要なことだと私自身はそう思うので、シンプルにとてもすごいなぁと尊敬。

たぶんですが、自分の感情に飲み込まれずに常に機嫌良く生きている人、機嫌良く見せられる人は、自分の内側にある『私はこう在りたい』を原動力にしているようにも感じます。その願いを叶え続けるための方法の1つが、常に機嫌良く生きることなのかなと。だいぶ想像ですが。

そういう自分の内側にエネルギーを持っている人は太陽のようにあたたかい気がする。何ならそのあたたかさを自然と周りにもお裾分けもしてくれているような気もする。羨んだところで同じにはなれないけれど、これなら負担少なく出来そうだなと感じることを自分でも試してみて、『この人はいつでも機嫌の良い人だな』『平和そうな人だな』と思ってもらえるように、私も工夫していけたらと思います。

伝わらなかった時にいちいち傷つくのを辞めようと思う

コミュニケーションが上手くいかず、自分の想像通りにコトが進まなかった時って、自分以外の誰かや何かのせいにしてしまうことも多々ありましたが、それで良い方向へと進めた実感は、私の場合はほとんどありませんでした。

お互いに心地よいコミュニケーションの取り方は、技術を身につけたらどうにでもなる気がしています。上手くいかなかった時に愚痴を言ったり好きなことをしたりして発散する方法もあるけれど、そうやって発散する前でも後でも良いので、『どうして上手くいかなかったのか』の振り返りをしておきたいなぁと、少しずつですが試してみています。

それと、自分の知識不足を棚に上げながら他人を批判することを無自覚にしてしまうこともあるので気を付けたいなぁと。誰かを悪者にして自分は被害者だとする振る舞い方は割と簡単に出来ることだけれど、そういう安易な方法を選んでばかりだと何の成長も無いと私は思っています。

疲れてたりすると特に、つい自分にとってより簡単な方法でその場を凌ぎたくなるので、余裕のある時に何が上手くいかなかったのかの振り返りをしておいて、モヤモヤだけが残ることの無いようにしておけたらとなぁーと。いつまでもお姫様の気分で誰かが何とかしてくれることを期待しすぎないように、自分でどうにかしていけたらと思います(そもそも今までずっとお姫様気分だったんかーいっていうツッコミが聞こえなくもない)

放っておけないものがいろいろある、毎日変わる

『私は暇なんだろうか?』と思うぐらい、何かに困ってそうな人をキャッチするセンサーが稼働しすぎてるような気がする時があります。実際に暇なのか、それともただのかまってちゃん精神から来る行動なのかはわからないけれど、出来る限り『余計なことを言わない、余計な関わり方をしない』を胸に刻み、ちょっと物足りないぐらいの接し方で、出来るだけ長く関わり続けられるような距離の調整を実験中です。

果たしてそれは上手く行っているのか?困ってそうに私には見えるだけで、本人的には大きく困っていない場合も往々にしてあります。『ちょっと近付き過ぎたかな?』と感じる時の大体は、私自身が疲れていたりで自分で自分の機嫌を取れていない時なので、自分側での調整がすぐ出来るような心の余裕も持っておきたいです。

技術が進歩することは良いことだけなのかな

今年の2月に父方のおばあちゃんが亡くなりました。御年98歳。9人姉弟の長女で、若い頃は有楽町にあった某百貨店の社員食堂で働き、3人の子を産み(私の父は末っ子三男坊)、畑仕事が好きで育てた野菜をよくお裾分けしてくれたり、十数年前に先に亡くなったおじいちゃんともたいそう仲の良かった元気なばあちゃんでした。

そんな元気なおばあちゃんでも亡くなる1年ほど前から体調を崩し、緩和ケアをしてくれる病院で過ごしていました。そこへ妹と一緒にお見舞いに行った時、おばあちゃんはポツリと「早くあっち(天国)へ行きたい」と呟いていたその言葉が、今でも何となく心に引っかかってます。

技術的には人間が長生きすることが出来るようになってきたけれど、苦痛なく健康的に生きられる期間には限りがあること。家族などの周囲の人の気持ちと、当の本人の気持ちとにも温度差がある場合もあること。特におばあちゃんの場合、呆けることなく脳みそはしっかりしていたので、衰えていく自分の肉体の様子に日々どんなことを感じながら過ごしていたのかなと。

おばあちゃんの最期の時に立ち会うことは叶わなかったけれど、安らかに眠りにつけていたら良いなぁ。
私はいくつまで生きられるかはわからないけれど、おばあちゃんの血も受け継いでいる=長生きする可能性アリなこともわかったので、恐らく今までの人生の倍は最低でも生きられそう。長いな。

ここからも長くなりそうだけど、いつの瞬間を切り取っても自分自身で納得して過ごせてたよねと最期にも思えるようには過ごしていきたいなと思いました。

同じことを体験していても感じ方って違うんだな

その亡くなったおばあちゃんの葬儀の時に、久しぶりに2歳年上の従兄弟のお兄ちゃんと再会しました。
そうやって親戚が集まった時の話題といえば、昔話に自然となるかと思いますが、その従兄弟のお兄ちゃん曰く、小学生ぐらいまでずっと、私の身長を越えることを目標にしていて密かにライバル視?していたということを、その時に初めて聞きました。

4020gでこの世に爆誕した私。小学6年生の段階で160cm近くあり、同級生とは頭1つ分差がある図体でございました。当時の私としては『華奢に生まれたかった』『物理的に目立たず生きたい』という欲望が強すぎて、この身長の高さがすこぶる嫌でした。

毎年お正月に親戚一同が集結する場では、必ず従兄弟のお兄ちゃんと並ばされての背比べをさせられていたのですが、この時に従兄弟のお兄ちゃんの心に密かに火を付けていたようで、お兄ちゃんはこの日のために毎日牛乳を飲み続けていたそうです。そのおかげ?で当時は小柄だったお兄ちゃんも、現在は180cm越え長身のサッカーおじさんに成長しました。牛乳って本当に背が伸びるんですね。ただ、いわゆる成長痛と呼ばれるものがえぐいぐらい痛かったそうです。

子ども同士の背比べに限らずですが、よくある光景、よくあるエピソードに対して感じることも、人それぞれなんだなぁと、数十年経って自分の図体が大嫌いだった気持ちが蘇ると共に、知ることが出来て面白かったです。

過去の記憶はいくらでも捏造できる気がしたこと

自分の記憶って、その時その時の状況や気分によっていくらでも書き換えられるような気がしてきました。
物覚えが悪いからってこともあるのかもしれないけれど、同じ状況を見ていても感じ方は人それぞれで異なるように、自分の置かれている状況の変化によって、過去の出来事の捉え方は180°でも360°でも変えてしまえるように思います。どんなことでも正解、不正解にスッパリとキレイに分けて判断出来るものでは無いけれど、疲れていたりすると0か100かの極端な考え方に囚われ過ぎてしまうことも自分自身の経験としてあるので気をつけたいところ。

そして自分の放った言葉で自分自身に対して呪いをかけてしまうことも割と簡単に出来てしまう感覚もとてもあります。自分の言葉をこの世の中で1番よく聞いているのは他でも無い自分自身なのは、全ての人において変わらないことだとも思います。
どんな言葉を自分に聞かせ続けるかで、自分が肌で感じる人生の感覚もガラリと変わるような気もしているので、周囲に不安を与えない程度にはポジティブに、だからといって『頭、お花畑か?』みたいな心配もされないようなネガティブさもスパイスとしては持っておきながら、自分に聞かせる言葉選びも慎重に行なっていけたらと思っています。

非言語コミュニケーションも忘れず大事にしていきたいと思ったこと

仕事を続ける上で必要なことだからというのもあるのですが、他者の話を聞くことの方がこれまで多かった経験から感じることの1つに『表側に出て来た言葉や表現と、内側で考えていることが一致していない場合も多い』ということがあります。

たぶんこの『心で感じていることと身体で表現したことの一貫性』という点に関しては、赤ちゃんや子どもたちの方が優れている能力なんだろうなとも思っていて、そういう素直さ、わかりやすさも忘れずに持ち続けておきたいなと感じています。
また、言葉や行動などの表に見える直接的な表現の部分だけを信じ過ぎず、本当は何を求めているのか。相手に対してもそうですが、自分自身の中でも出来るだけ、表側と内側で差があり過ぎないようにしておきたいなぁと。

何となくですが、現時点ではAIよりも人間の方が優れている点もこういう部分なのかなーと。
『過去の情報を集約して、より多くの人にとっての最適解を教えてくれること』に関してはAIの方が優秀そうですが、その反面、刺さる時と刺さらない時の差もあるような気がしています。どうしても過去に起こったことベースの提案になってしまうことや、webという大海原に書かれていることのほとんどは『どこかの誰かの成功例』の情報が多い気がするので、『その人だったからそれで上手く行った』ということの方が多いこと。また、そもそも『言語化出来たこと』の要約なので実際との差もあるようにも感じています。そこから得られるヒントももちろんあるんですが。

AIには出来るだけ抗いたい、何なら上手く使ってやるぞと思っている人間の1人としては、目の前の相手の『無意識』もちゃんと拾ってあげたい、活かしてあげたいと思っています。その部分の方にその人本来の良さがギュッと詰まっているような感覚もあるので、今よりもより良くなることを願うような関わり方を模索出来たらと思っています。

思ったこと感じたことを書き留めておくことは自分への労いの1つな気がした

自分的には大したことは書いていないと感じたとしても、事実としてそこにあった気持ちを書き留めておくことも大事なような気がしました。前述もしましたが過去の記憶はいくらでも捏造できるので、『今の自分』を残しておく作業は、他でも無い自分のためになる行動のように思います。

サラッとひとことだけでも十分で、出来れば何か感じたその瞬間に残しておくこと。方法はノートに手書きでもSNSへの書き込みでも良いけれど、『絶対にあとで消さないこと』その辺りを自分へのルールとして持っておくと良い気がしています。

特に『時間が経ってから消す行為』は『自分の気持ちを無かったことにすること=自分で自分を否定すること』にも繋がるように感じていて、その行動が癖になってしまうのは自傷行為と大差無いようにも思います。それをすることで前に進める場合もあるのかもしれないけれど、自分の傷を自分自身で癒す方法も同時に身に付けていきたいなと思っています。

『あえて言葉にしないこと、出来ないこと』も大事にしたいなと思った

自分の中の感情や感覚を言葉にすることは、『情報』に変化することでもあると思います。そうやって言葉から情報へとなる過程においてはどうしても、イコールでは繋ぎきれない何かもあるような気がしています。多くの人に理解してもらう必要があることに関しては、そういった情報への変化はとても必要なことだとは思うけれど、なぜだか言葉にすることを躊躇うような感情や感覚も、それはそのままの形で大事に持ち続けられたらという気持ちもあります。

伝わりやすい言葉には軽やかさも必要な気がするけれど、そうは出来ない重めでドロドロした感情も持ち合わせているからこそ、よりその軽やかな言葉が際立って、遠くへ届くようになるんじゃないかなぁと。どちらか一方だけの見え方だけでなく、どちらも合わさることがその人それぞれの魅力に繋がっているようにも感じているので、言葉では表現しきれない感情や感覚からも目を逸らさずに、見つめ続けられたらと思います。

個人の性格は生まれつきのものじゃなく『そうしなければ生きられなかった結果』という考え方が自分には何だかしっくり来たこと

何かの心理学の本だかに書かれていたらしいこの考え方が目に留まった時がありまして。そう考えるととてもしっくり来ると共に、周りの人たちへの労いの気持ちも生まれて来るような感覚もありました。それぞれにそれぞれの人生を歩んで来たから今があるので、一人ひとりに向かって『お疲れー!今日も生き延びよー!』の気持ちを心の中で日々唱えたり。

また、この考え方がしっくり来たもう1つの理由は『これからの過ごし方で性格も変わること、変えられること』があります。性格は生まれつきのものと言われてしまうと諦めることも多くなりそうだけど、『今後はどう生きたいか』を思い描いて、周りに何と言われようともスンッとした顔をしながら希望通りに過ごせるように工夫していけば、楽しい時間も増えてくるような気がして実験中です。

自分が良いと思ったものを周りにも伝えようとする人が増えた気がする

少し前まではどちらかというと『良いものを見つけた時、自分の中だけに留めておきたい』という趣向の人の方が私の周囲には多かった気がしてましたが、ここ数年でそれがガラリと変わったような気がしています。自分のフィルターを通して良いと思ったものを押し付ける感じでは無く、とても自然体に、『これ良いよ、素敵だよ』と、周囲にも伝えていこうとする人が増えたような気がしました。

SNSが発展したおかげでそういった行動に触れる機会が増えて、今まで見えなかったこと、感じるまでに時間がかかったことに気付けるようになっただけかもしれませんが、そういう世界の方が自分自身も好きなことがわかったので、周囲の真似をしながら、良きものを見つけた時は意気揚々とオススメし続けていけたらと思っています。

求められる人になること=我慢も必要なこと

先日、徹子の部屋に出演していた藤井 風さんが言っていたことで、藤井さんは父親から『お願いするんじゃなくて(お願い)される方になりなさい』と言われ、『誰かに求められる人』になれるようにしてきたとのこと。ただ、そうなるためには、藤井さんにとっては努力や我慢も必要だったということを話していました。

その言葉を聞いてものすごく腑に落ちたというか、無意識のうちにし始めて無意識のうちに続けているような癖なども少し自覚出来たような気がしました。『我慢』というフレーズだけだと、どちらかというとネガティブに私は受け取ってしまうけれど、困難にも耐える力を身につけられたり、気付かないうちに壁を越えられていたりすることにも繋がることでもあるとも感じています。

だからと言って、耐えれば耐えるほど自分が壊れていくような感覚になる我慢はしちゃいけないとは思う。未来の見えない耐える作業はつらいので。何かほんの少しでも光が見えるような気がする我慢がもし目の前に来てしまった際は、少しずつ少しずつ踏ん張れたらなぁーと。その時に今後は出来れば、周りからの支えてくれる手も認識できて、それを握れるだけの心の余裕も持ち合わせておきたいなと思っています。

私が人間として今の世の中を全うするためには、現代の社会システムから抜け出すことは出来そうも無いこともわかってきたので、そのシステムの一部であることを自覚しながらよりご機嫌よく過ごせる方法を、これからも少しずつ探っていけたらなぁーと。

『静かな狂人』が周りに多い?増えた?気がする

パッと見の印象は大人で、近過ぎず遠過ぎずなちょうど良い距離感で接してくれるけれど、『ここ!』というタイミングで瞬間的に狂人スイッチが入る人が、ジリジリと増えているような?そんな気がしています。

それぞれに『ここ!』のタイミングは微妙に異なるけれど、凪の状態からパッと火が灯って、たくさん話してくれたり関わりが増えたり、ウキウキ楽しそうな姿を見られるのがなんだかとても嬉しい楽しい。来年もそんな瞬間に立ち会える回数がたくさんあったら良いなぁと思ったりなどもしている私もなんやかんや狂人なのかもしれませんね?

合理的な判断が必要な時もあれば、論理的な筋は通らないけれど関わった方が面白くなりそうなこともあったりするので、全てにおいて安パイを選ぶよりも、たまにはそうじゃない選択もしていけたらと思います。その方が出来ることが増えたり、新しい関わりが生まれたりもしたので、私にとってはその方が楽しく過ごせそうです。

やらなきゃいけないことを持ったままの状態が苦痛だということがわかった

1つ1つは小さなタスクでも、自分の手に持っているままの状態が続くことがすごく苦痛だということが、ここに来てようやくわかったような気がしました。遅い。

昨年ぐらいまでは次の日に持ち越すタスクはそれほど無かったのですが、最近は時間の許す限りはそこまでスピード感を持って対応するのを敢えて抑えてみようの実験中で、翌日にタスクを残すことを増やしてみた結果、それが頭の片隅に残り続けて、前よりぐっすり寝られることが減った気がしています。アカンやん。

比較的、自分でスケジュールコントロールのしやすい環境に身を置いてはいるけれど、そこへ行き当たりバッタリな性質が加わった結果、『この隙間で〇〇が出来るな』と重箱の隅をつつくような感じで、パッと思い付いた新しいタスクをねじ込みがちなので、その部分もコントロール出来るように工夫していけたらなぁとは思っています。

『辞める決断』を身近なところで見かけることが多かったこと

今年は『辞める瞬間』をいつもより多く見かけた気がします。そのどれもが、『それなりに長く続けていたもの』や『外から見ていたら上手くいっているもの』『これからもそのまま続くんだろうなと感じていたもの』で、そうだからこそ余計に、この決断をするまでにものすごい葛藤もあったのだろうなぁと勝手に想いを馳せたりなどもしました。

だからといって、当の本人たちはとても軽やかで、とても静かで。私から見たら大きな決断のように感じている『辞める』ということも、前に進むための手段の1つでしかないのかなと。変に何かに執着しがちなところもある私の目からは、その決断を選択している姿がとてもかっこ良く感じました。

もし自分が悩んだ末に何かを辞める、手放す決断をする時も、そんな風に軽やかな姿を見せられるようにしたいなぁとも思いました。

『しぶとい人』が気になる

語感が好きだから敢えて『しぶとい人』と書きましたが、『諦めたくなる時があっても前を見れる人』『より良くなるような工夫をし続けられる人』『考えるだけでなく行動にも繋げられる人』と書くと印象が良い感じがしますね。だったら最初からそう書けば良いのに。

最近は周りにしぶとい人が増えたような気がしてまして。私はめんどくさがりなので、1人だと割とすぐ諦める選択をしがちですが、そんなしぶとい人たちを見ていると『もうちょっと頑張ってみようかな?』『方法が見つかるまで悩んで、実験してみようかな?』と思えるからアラ不思議。

周りのしぶとい人たちを見ていると、自分の理想に向かって常に全速力で走り続けている気がしていて。私の中にもぼんやりとした理想はあるだろうに、それを見て見ぬフリをしたりして全速力で向かっていけていない後ろめたさがある気はしていまして。助走ぐらいから始めないとアキレス腱ブチ切れそうですが、たとえ時間が掛かっても、その掛かった時間の分だけ副産物的な経験値も貯まるような気もしているので、私ももう少し、しぶとくやっていきたいなぁなんて思ったりもしています。

『いただきもの』を受け取った時に感じることの変化

これまで過ごしてきたことを振り返ってみても何となく、いただきものをもらうことが多かったように感じる人生でしたが、ここ最近もまた何となくもらうことが増えてきたように感じてます。ありがたい。

例えば、近所のお店でお菓子をオマケしてもらったりや何らかのギフト券や招待券などのモノをいただくこともあれば、ドアを開けてもらったり道ゆく知らない人に話しかけられたりなどの、その人の時間(=寿命)をいただくことなど、その時によっていただくものはいろいろで。

以前の私だったら表面的には感謝の言葉を述べつつも、『なんか不憫そうに見えたのだろうか…』と内面ではクサクサしながら受け取ることの方が正直なところ多かった気ががが。そういう風に周りからの優しさを真正面から受け取れないのは、自分の内側に潜む余裕の無さから来るものだとは思うのですが、せっかくの優しさを素直に受け取れないことで良きチャンスのようなものを自ら潰すことにもなりそうで、ちょっと勿体無いことをしていたのかもなとここ最近は思えるようになってきました。遅い。

自分の中で何が変わったのかはまだ定かでは無いですが、ここのところのいただきものタイミングの時は、素直に心からの『ありがとう』を言えるようになった気がしてまして。ちゃんと目を見て伝えられると、目の前にいる相手にもその気持ちがちゃんと伝わっているような気もして、さらにホコホコとした気持ちになれるので、そういう良い循環をし続けられるようにしておけたらなぁと思っています。


2025年の振り返りは以上です。
お付き合いいただきありがとうございました!
ここからは2026年も意識しておきたアレコレです(まだ続くんかい)

出来れば未来の話も出来るようにしていたい

世の中的には“おばちゃん”と言われる年齢に、片足どころの騒ぎでは無いほどズブズブと踏み込んでいるので、周囲から聞こえてくるのは、『カラダが痛い』『健康診断いけ』『寝ても覚めても疲れが取れない』『親の介護が始まった』など、どちらかというとネガティブに感じる話を耳にすることも増えてきたようにも感じています。

その言葉の中にはもちろん、自虐も含めてあったり、大変だけど明日も頑張って生きようといった気持ちも込められてるものなんだろうなとは感じてますが、出来れば自分の口から発する言葉からは、ポジティブな印象を周囲には受け取ってもらえるようにしていきたいと私は思っています。

やらなきゃいけないことはもちろんするけれど、周囲にいてくれる大事にしたい人にまでネガティブのお裾分けをして負のオーラに巻き込みたくは無いので、目の前に来たことをどうしたら楽しみながらこなしていけるかを、忘れないように過ごしていきたいです。

『どうでもいっか』と流すことも増やしていけたら良いかも

全てに無関心になれってことでは無いですが、身の回りで起こることに対して、反射的に反応してしまうのも如何なものなのかなと感じられるようにもなってきました。ちょっと冷たいような、大人になったってことのような。

見えてしまったことを『どうでもいっか』と一旦横に置いておく行為は、私にとっては地味に大変なことだけど、時間が解決すること、横に寝かせておいたからこそ、良い結果につながることもあることがわかってきました。今の時点の自分では役不足なことも多いので、すぐに深入りせず様子を見るという行動も身につけていけたらなぁと思っています。

期待を持ち過ぎないように、でも期待できるようにはしておきたい

周囲でいろいろな話は持ち上がるけれど、現実になるのはほんの一握りな気もしています。話題として盛り上がること自体も楽しい時間の1つですが、1度口にしたことならそれを実現できるような工夫もセットでしておきたいなぁと最近はそっちの気持ちがフツフツとすることも少なくないような感覚もあります。

自分1人で完結出来ることであれば、悩まずサッサと実験してみた方が吉だと思いますが、段々と複数人での調整も必要なことも増えてきたようにも思ってまして。そんな時に上手に周りと協力しながら夢物語を現実にする機会を作っていくためには、ちょっと前のめり気味に自分から動いてみることも必要なんだろうなと思います。

誰かがやってくれるまで待つ選択肢を選ぶのも良いけれど、自分の思い描いた100点に近いものを実現したい時は、待ってるだけじゃちょっと足りないんだろうなぁと最近は感じてもいます。待ちの姿勢が長くなればなるほど上から目線な評論をしたくなってしまうので、今そうなりそうだなと自覚出来るうちに、口ばかりを動かすよりも先に、行動をし始められるようにしておきたいです。

支払う時は気持ち良く渡すことを忘れないようにしたい

インボイス制度なども始まったり、税金もお米やなんやかんやも日に日に値上がったりと、自分が支払う立場となるとグッとくるのがお金の話で。

だけど何となくですが、『高いなぁ〜』と嫌ぁ〜な気持ちで支払うよりも、『ありがとう』の気持ちを持ちながら支払う方が予後が良い気がするので、どうしても支払わなきゃいけない税金とか税金とか税金とかは、なるべく嫌な気分になる時間を減らせるように、金額を見ずに支払い対応してもらえる銀行引き落としに変更したり、心のどこかで『この税金が巡り巡って誰かのためになってるのだから、わざわざ寄付などをしなくても寄付したのとニアリーイコールだよね。私って素敵』などと、得意の妄想癖を捗らせたりなどをして、『お金を支払うこと=世の中の役に立てていること』だと自分で自分に暗示をかけるようにしました。文字で書くと怖いな。

どちらの気持ちで支払っても実際にお金が減るのは同じことですが、その後の気分の差はだいぶ変わるように感じています。出来るだけ嫌ぁ〜な気分になる時間を減らせた方がハッピーなので、どうしても避けられないことへの心の保ち方も、いろいろ実験し続けていけたらと思います。

簡単に答えを知るよりも、わかんないことをわかんないなりに探求したい

わからないことがあると割とすぐにweb検索してしまう方ですが、そうやって手軽に得た情報だけで満足し続けてしまうと、どんどん高慢な人間になっていくような感覚があります。『私は神だ。だからなんでもわかるんだ。』みたいな。

スピード感を持って調べなくてはいけない場面ももちろんあるので、それも1つの方法だとは思いますが、表面的な部分だけの情報で全てを知った気にならないように、調べたことを実際に試すための行動をしたり、より詳しい人にも相談したりなどをしながら、少しずつ少しずつ解明していくことも、もっともっと増やしていくことも必要なように感じています。

関わりたいものとの接点を自分から離すことはしないようにしたい

『誘われる側になりたい』『待っていても声をかけられるようになりたい』という気持ちはゼロでは無い高慢な人間な自覚はありますが、そうやって待ちの姿勢でいる間に世の中はどんどん動いていってしまっているようにも感じています。それでも関わり続けてもらいたい人からの興味を出来る限りは自分から手放すことはしないように、もう少し工夫していけたらと思いました。

私の場合、ねっちりみっちりと回数の多い密なやり取りを日常とするよりも、何かお互いのタイミングが合った時にふわっと盛り上がるような、そういう瞬間風速的なものが起こることの方が、風速が落ち着いた後もその余韻でホクホク過ごせます。そういった瞬間をちびちびと重ねられるようには、自分自身でもしておけたらなぁと思います。

選択肢を減らす工夫もしておきたい

以前よりはあまり悩まなくなった気がしています。私の場合は悩んだところで時間を浪費するだけで、あんまり良い結果に繋がった経験がありません。なのでこれからも、悩みが深くなりそうであればその時はやらない、『また良きタイミングで戻っておいで』の気持ちも込めつつ、見聞きした情報でも、その時点では手放すという選択肢もあるってことを忘れないようにしておけたらと思っています。

おおよそのことは調べればすぐに、様々な情報へとアクセス出来る便利な世の中ではあるけれど、その反面、『今の自分に本当に必要な情報』を選び取る力が試される世の中でもあるように感じています。情報やデータを溜めれば溜めるほど、動きが重くなるのは人間もパソコンも同じだと思うので、必要なものだけ持って、出来るだけ身軽に動けるようにしておきたいです。

好意的な言葉をもらった時、素直に受け取れるようになりたい

誰かからの好意を受け取る瞬発力が無いのをどうにか出来たらなぁーと随分と昔からそう思っています。たぶん過去のいろいろなトラウマがこんがらがって縛り付けられている感じだとは思うのですが、褒められたり喜んでくれたりしてる姿を目の当たりにしても、心から嬉しい!心からテンション上がる!と感じるまでにだいぶ時間がかかる感覚。

誰かからの好意を受け取る→1回家に持って帰る→持って帰った後でマジマジと見つめてニヤニヤ実感する…といった感じなので、出来ればその好意を渡してくれた人の目の前で、心からのテンションを上げられるようになれたら良いのになぁ…その方がその目の前にいてくれる人も嬉しいだろうなぁ…と思ったりなどもしているので、どうにか出来るように工夫していけたらと思います。

だからといって、全ての好意を受け取る必要も無い気もしていて。ただのワガママかもしれないけれど、何だか一方的だなと感じた好意に関しては、丁重にお断りするような姿勢も持っておけたらとも考えています。

自分のしんどさ、つらさを解消するために他者を巻き込まないようにしたい

自分的に大変だなぁーと感じる時でも、自分以外の誰かを巻き込むことは極力減らしていけたらとは思っています。ゼロにするのが目標。さっぱり出来ていないし、むしろ増えているような気もするけれど。

何かきっかけはあるにしても、そのきっかけから機嫌を悪くする選択をしたのは他でも無い自分自身だから、しんどさやつらさを他者を介して軽減、解消しようとするのは、だいぶわがままな行動だと思えるようにはなってきました。被害者ポジションを取ることの方が私にとっては簡単なことだけど、その振る舞い方を続けた先に残るものって本当に私が欲しいものなのかな?とは感じているので、それも1つの経験だと思ってニコニコと感謝する方を選択出来る機会を、1つでも多く持っていけたらなぁと思っています。

また、どうしても『誰かに話さないと解消出来そうにない!』という場合には、身近な人への相談やSNSに書き込むなどの方法もありますが、対価を払ってカウンセリングに頼るという方法もあるんだなということを最近感じてまして。自分なりの自分の言葉にすることで整理が付くこと、聞いてくれる側も解決方法の提示や一方的に味方になってくれるような所作ではなく、フラットに関わってくれるようにも感じるので、そういう関わり方が心地良い場合もあるように思いました。また、聞いてくれた時間に対してわかりやすく対価と交換出来るという点も私にとってはちょうど良いです。

いつかは完全に、仏のような心を持てるようになるのか…?
今後の自分に乞うご期待。

フラットな関係を出来るだけ維持できるようにしたいな

これまでの私の経験として、上やら下やらがハッキリしている関わり方よりも、対等な関わり方を目指そうとしてくれる時の方が心地良く、関わり続けられる時間も長く保てるように感じているので、出来ればそういうフラットな関わり方を維持できるような工夫をし続けられたらとも思っています。

自然とそういう関わり方をしてくれる場合もあれば、言葉で伝えてお互いに調整する必要がある場合もありますが、『言わなくても察してくれ』の態度は極力しないようにしていけたらなと。

私側が目指しているだけだと維持は難しいけれど、相手を変えるようなこともしたくは無いので、どうしても考えていることの方向性が合っていないように感じた時は、ひとまず離れる選択肢も持っておけたらとも思ってます。縁があればまた再会することもあるってことも何となくの体感としてあるので、一緒にいたり離れたりを繰り返しながら、前へと進んでいく方法もあるんじゃないかと思ってもいます。

世の中では必ず、2割の人には嫌われる(2割は何をしても好きでいてくれる、残り6割は状況次第)とも聞いたので、たとえ関係に距離が出来たとしても心の中で『達者でな!』と、それぞれの思うより良い世界へ進んで行けたらと思います。

自分なりの甘え方の習得

私は乙女座、長女、A型です。人への甘え方を知りません。押忍。
戌年がもう少し仕事をしてくれるともうちょいどうにかなりそうな気もするのですが、先日『狂犬病の戌年』とも言われたので果たしてどうなのか?

ただ、ここのところほんの、ほんんんーーーの少しだけ、コツがわかってきたような気もしていまして。『それは寂しいわ』って甘え方は少し出来るようになってきました。ここに来てちょっと成長。

物理的にも時間的にも自分1人で全てを賄うことは不可能に近いので、周囲へかける負担少なく、自分自身の精神的負担も極力抑えらる甘え方を、引き続き日々実験していけたらと思っています。

『避けたい苦労の種類』を知っておきたい

大雑把にはぼんやりと把握はしている気がするけれどまだ全貌はさっぱりなので、引き続き探っておけたらなぁーと。

今の時点でわかってることは『最終的な決定権が自分に無いこと』『場所や時間の自由が制限されてしまうこと』『自分の失敗を他の誰かに背負ってもらう必要があること』この辺りは避けておけた方が健やかに暮らせるような気がしています。

私の場合、楽しいと感じることはその時々で変わる気もしているので、そちらを把握しておくよりも『やりたくないこと』『関わりたくないこと』の方を軸として持っておく方がブレが少ない気がする。それもそれでまた、日々心地良くいられる考え方が変わるかもですが、今のところはそんな感じです。

交渉の場をつくることから逃げないこと

どんなに素敵な関係を築けたとしても、それが永遠に続くことの方が稀だと思っています。距離が離れてしまうこと自体は悲しい寂しいことでは無く、それが必要なタイミングというのも必ずあるのだとも思います。だからと言って、『あの人は〇〇だから仕方ないよね』と勝手に決め付けて、会話をすること自体を避ける選択をするのもまたちょっと違うよなぁと、最近は思えるようになって来ました。

頭で考えていることと、外へ出て来た言葉に差のある人の方が多いことも何となくわかって来たので、少ない会話や関わりだけで『この人は〇〇だよね』と断定しすぎず、仮説として捉えた上で会話をし続けられたらと今は思っています。

どうやっても会話の成り立たない人もゼロでは無いから、会話し続けるかどうかの線引きのマイルールを持って必ず守るという強い意志を持っておくことも重要ですが、2025年現在の世界人口・約82億3200万人の中からせっかく出逢えたのだから、自分の手でその関係を放棄する選択肢は、出来れば最終手段にしておけたらとも思っています。

『世間体』との付き合い方

老若男女たくさんの人が生きているこの世の中では、一般的に多くの人が良いとしていることを尊重するべきだよなぁと思うことの方がこれまでの私の中では多かったですが、ここのところ、そのままの感覚だと悩むことも増えてきたようにも感じています。

急にガラリと、ここまで持っていた感覚を変えることは私には難しいけれど、今の自分が持っている感情にも寄り添えるような調整はしておけたらなぁーと。世間体と呼ばれるものも、時代や環境次第でどうとでも変わってしまう概念だとも思うので、もうちょいワガママにも振る舞っていけるように実験していけたらと思います。

言葉を奪う人との距離の調整

どんなに言葉を尽くしても、歩み寄ろうとする姿勢が感じられない時がどうしてもありますが、そんな時に自分の中での正解ばかりを押し付けるのも、それはそれで違うよなぁと思えるようにはなってきました。

どんなことでも『正解』と言えるものは無数にあって、人それぞれにその正解も異なるということまでは理解はしているので、言葉を伝えることを躊躇う場面が増えて来たなと感じた時には、今の状況で相手が受け取れる範囲の量へ減らすことも忘れないでおきたいと思っています。

伝わってないなと感じた時に、関わる時間を増やして自分の気持ちをより多く伝えることでの解決を選ぶことの方が過去には多かったですが、状況が悪化することも多かったなとも感じます。限られた時間の中でもより手応えを感じる関わりを増やせた方が、周りの人にとっても自分自身にとってもハッピーな気がするので、相手の言葉も自分の言葉も奪って無かったことにならないように、混ぜていい感じにしていけるような関わり方を増やせるように、これからも模索できたらと思っています。

当たり前を伝えていくこと

自分の名前や存在が残るようなことを出来ればしたくないの気持ちがずーっと昔からずーっとありまして。覚えておいてくれているのはとても有難いことなのですが、あまり属人的になりすぎることを私自身は望んでいないんだよなぁと、ほんのりぼんやりと思ってもいます。

『当たり前』と書くと、『誰にとっての当たり前なんだろうか?』とも思ったりもするけれど、『これが多くの人にとってより良くなることだよね』と私が思うことを、これからは周りにも伝えていけるようにしていけたらいいなぁと。まだハッキリとはこうしたら良いんじゃないかっていうことは正直思いついてはいないですが、ほんの少し見えそうに感じていることをせっせと育ててみれたらなぁと思っています。



…以上!
長々とお付き合いくださりありがとうございました。
ここまで読んでくださったあなた!めっちゃ素敵な人!
明日からも愉快痛快にすごせますよーに!

それではまた来年2026年もどうぞよろしくお願い致します。
皆様も良いお年をお迎えくださいねー!

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