2024▶︎2025

2024▶︎2025

こんにちは、空間デザイナーのナカザワフミです。
2024年も終わりが見えて来たので、毎年恒例の振り返りなどをしてみたいと思います。

こうやって年末に一年を振り返るのも今年でかれこれ5回目。
今年は今までのように年末にまとめて書き出すのでなく、半年ぐらい前から感じたことをその都度書くことに切り替えて実験してみました。

その結果、例年以上に長い。そりゃそうだ。
これでもだいぶ削ったのですが、興味のあるところがあればご賞味ください。

目次

世の中は『時と場合による』ことが多すぎる

その時々で最善な方法が変わることが普通だということがやっと自分にしっくり来たので、自分の当たり前を周囲に押し付けてしまうことも徐々に減らせていけているように感じています。それでもやっぱり疲れていたり、いろいろなことが重なって余裕が無かったりすると、物事が思い通りに進まないことを誰かや自分のせいにしそうになる時があるので、そもそも疲れたり、余裕が無くなるようなペースにならないような工夫をし続けておくことが大事なことだよなぁと最近は思っています。

『どんなことでも時と場合による』っていうことが曖昧で嫌だなぁと感じていたこともあったけれど、それを前提としながらの対応をした方が、目の前の問題に対して色眼鏡なく向き合えて、柔軟な対応もしやすいんだなと感じられるようにはなってきました。大人になりましたね。

そのぐらい軽やかに、どんなことが目の前に起こってもでーんと構えていられるようにしておくことが、今後のささやかな目標の1つです。

自分の仕事を通してコミュニケーションを取りたい気持ちが今は強いのかもしれない

仕事をすることで得られるものは大きく分けて2つあると私は思っています。
1つはお金を得ること。そしてもう1つは誰かとコミュニケーションを取れること。

1つ目のお金については、現在の世の中のシステムの上で生きていくにはどうしたって必要なものですもんね。私も出来るだけかける手間を少なくたくさん欲しい気持ちはべらぼうにあります(強欲)

2つ目のコミュニケーションについては、自分以外の誰かの役に立つことでお金を得られるものが仕事になることだと思うので、出来る限り最小限にしておけたらと切に願う引きこもり体質でも、ゼロにすることは難しいものだということはわかっているし、誰かの役に立てたなと感じられた時は密かに嬉しく、心の中でニヨニヨとしております。

働いている人それぞれに、お金とコミュニケーション(誰かの役に立つこと)の優先度は変わると思います。同じ人でもその時々によって比重が変わることももちろんあることだと思いますが、何となくコミュニケーションを優先したい気持ちの方が最近は強いように感じています。また、直接的な役に立ち方ではなくても、『その存在があるだけで尊い』みたいなことも今はとても楽しめているようにも思います。

そして私の周りに長くいてくれる人も、コミュニケーションの比重が高い人が多い気もする…似た者同士が集まっているってことなんでしょうかね? 年々周囲とのコミュニケーションに苦労を感じることの割合が減って来たので、自分が本当に望んでいることを、言葉や行動で周囲に伝えることも上手く出来るようになって来たのだろうか?と思っています。

行動したことが占いの結果通りになることが増えた

占い好きなのでよく読むのですが、私の場合は先に見てそこに書かれた通りの行動を心がけるというよりも、全て終わった後に答え合わせ的に見ることの方が多いです。

偶然かもしれないけれど、その答え合わせ的に活用している占い結果を読みながら振り返ってみると、そこに書かれたことに思い当たることがある場合が最近は増えてきたように感じています。

随分前に詳しく見てもらった占い師さんに『太陽星座っぽく過ごすことが出来ると喜びを感じやすいよ』と聞いたことがあります。私の場合の太陽星座(生まれた月の星座)は乙女座で、昔は『なんか女々しそうだなぁー』と正直あまり好きではなかったですが、乙女座の基本性格や人生に求めるものを読む度に『ほぼほぼ合ってる』と納得もしすぎて諦めもついたので、ようやく乙女座らしく過ごせるようになってきたのかなぁと。

余談ですが、個人的によく読んでいる占いはしいたけ占い石井ゆかりの星読みです。しいたけさんは身近な人とお喋りしているような感覚になるし、石井さんは物語を読んでいるような気持ちになるしと、どちらも『〇〇座とはこういうものだ』と断定するような雰囲気を感じない文体なのが、私にとっては読んでいて心地良いです。

『手の速さ』を自分でも納得できる形で活かせるようになってきた

一昔前まで『ナカザワさん、速くて助かる!』という褒め言葉を素直に受け取れない期間が長くありました。その言葉を伝えてくれたお相手の役に立てたこと自体は嬉しいけれど、ただの『手の速い女』としか脳みそには聞こえて来なくて、私にとってはあまり好きな言葉では無かったです。

ただここ最近は、『手が速いからいろいろ試せて納得のいく提案にまとめられたのか』とか『手が速い=今までの経験を活かせている』のように、少しずつその言葉をプラスにも考えられるようになって来ました。その1つの言葉の中に込められているグラデーションのような様々な意味を、以前よりも感じ取れるようになって来たのかなと。

自分にとって都合が良いようにしか受け取ってないとも言いますが、それでも誰かの役に立てていることを以前よりも前向きな気持ちで捉えられてはいるので、都合の良いこの捉え方をこれからも続けていきたいと思っています。

『今』の自分の状態を話せる存在がいることの有難さ

私の経験上ですが、大概の悩みごとって過ぎてしまえば大したことの無いもの、周りから見ると『そういう時もあるよね〜』ぐらいの温度感のものがほとんどなんですよね。でも、その悩みのど真ん中にいる時ってそれがこの世の全てで、そこからどうにも離れられなくなってしまう時があります。

元々周囲に対して悩みを打ち明けるというスキルを持ち合わせていない性分だし、もはや悩みかどうかもよくわからない境地に達していることも多々ある私が、それでも気持ちを凪の状態に保ち続けられることも多くなった理由の1つに、『その時感じたことを話せる存在が身近に複数いること』があるんじゃないかと思えるようになってきました。

『その時に感じたこと』っていってもそんなに大したことじゃなく、『これ美味しいね』や『これ面白かったよ』といった、なんてことない日常で感じた些細な感情であることがほとんどですが、そういう小さなことでも、自分の中だけに溜めておいてしまうと、小さなことが溜まりに溜まって抱えきれなくなる感覚になる時もあります。

誰か1人にそういう話し相手の役割を全て担ってもらうのは荷が重すぎるだろうと思うし、わざわざ自分のために時間を作ってもらう約束をするのも忍びないなぁ…とも思うので、私の場合は出来るだけ誰の負担にもならないように発散させてもらえるようにすることを心がけています。家族や友人、よく訪れるお店の方々などなど、日々のなんてことない会話を、お互いに楽しめる範囲でやり取りし続けられるように、これからもしていきたいなと思います。

また、このブログでしているように『文章を書くこと』も、私の中では自分の気持ちや考えを整理するのに一役買っているようにも感じています。対面での会話よりも文章での方が、私は本音を表に出しやすい気がしているので、自分の性質を知って、より心地よく過ごせる方法を今後も取り入れていけたらと思っています。

今見えているものは過去の自分が行動してきたことへの答え合わせだと思う

いつまで経っても『穏やかに過ごせているなぁー』と感じる部分もあれば、『これはどうにかしなきゃマズい』と思う部分も多々ありな綱渡りな状態を日々楽しく過ごしております。

自分がサボってきたことの代表格は『運動』と『家事』ですが、日課の散歩以外はあんまり続かず、洗濯や食事といった絶対必要なもの以外は見て見ぬフリすることも多いことに困ったもんだとは思いつつも、『まぁこれでどうにかなって来たからどうにかなるか』と楽観的すぎるところもあったりで、恐らく一生改善しない、改善するつもりが無いような気さえしています。

そうやってサボってここまで来たこと山の如しですが、その分より良くなるようにと改善してきたことの1つに『人との関わり方』があります。
自分に対して良くしてくれる人に私からも良く接し続けられることを目標にして、『受け入れる要望』と『受け取らない要望』を見極めながら過ごしてきたことが、ようやく自分に合うバランスで身に付いてきたように思います。上手くいかないことも多かったけれど、すんなり上手く出来たことよりも上手く出来なかったことの方が誰かの役には立てることが多いようにも感じているので、これからも考えること、試しながら行動してみることはし続けていきたいなと思っています。

フワッとした内容をそれなりにまとめられる人だと思われてる?

自分自身の自覚的には【0→1】よりも【1→10】にする考え方のほうが得意だと思っていたのですが、最近周囲からの話を聞いていると、まだ頭の中でイメージ出来ていない状態のものを見えるようにすることを求められることも増えてきたように感じました。

ただ【0→1】というよりかは【0.5→】ぐらい? 叶えたいことの解決の糸口になりそうなカケラはいくつか持ち合わせているけれど、それをどういう風に使うのか、どれとどれを繋げていくのかの方法の検討がついていない状態の相談が多いように思います。

以前から【1→10】にするための相談が来た際に話を聞いていて『悩みごと×その人の性格など』を加味した上で、『解決方法はそっちじゃなくてこっちの方が合ってるかもしれないなぁ…』と感じることもよくありました。ただ、その時点からの相談ではその根本の部分を覆す提案をすることのハードルが高いようにも感じて来ました。

要するに相手の考えを否定することにも繋がるので、より複雑なコミュニケーションが必要になってきます。そこまで踏み込んだ方が良い場合ももちろんあるけれど、上手くいった場合もあればダメだった場合も多くあったので、状況次第でその部分には触れずに、その条件での最善を目指す形を取る場合も多々あります。

なので、私的にはまだ【1】になりきれていない状態で相談してもらえるようになったことはとても有難かったりもしていたり。まだいろいろなことが固まっていない状態の方が選択肢も増えるので、よりその時の状況に合った最善策の提案が出来て嬉しいなぁと。

結果的に最初に考えていた方法を選択する場合もありますが、最初からそれと決めて進むよりも、いろいろと検討した上での決定の方が納得感が上がるので、そうやってほんの少しでも手間や時間をかけて準備したものの方が、より長く使ってもらえているような感覚が体感としてあります。

目の前の相手が想像しやすいような言葉や伝え方を選ぶ大事さ

どんなにいい感じの話でも、どんなにワクワク出来るようなことでも、そのことを伝えたい相手にその気持ちが伝わっていないことには無いも同然だと思うので、相手に合わせた言葉の選び方、気持ちを伝えるタイミングやスピードなどなど、いろいろと考えながら伝えることに気を使うことの大事さにようやく気付けるようになって来ました。習得までにだいぶ時間がかかりましたね。

アレも!コレも!と頭に思い浮かんだことをワーーーーーッと伝えたくなる気持ちを抑えるのはまぁまぁ大変だし、うっかりワーーーーーッと伝えてしまって1人になってから頭を抱えることも多々ありますが、自分なりの押し付けがましく無い伝え方を引き続きいろいろと試していきたいです。

『言われた通りに“だけ”やる』がことごとく出来ない

誰かに言われたことをそのまま、その通りにだけやることに違和感を感じることの方が多く、『これを足した方がより良くなりそう』だったり『この部分はやらない方が効率良くなりそう』なことを思いついてしまった時には、その時にすぐ試してみないことには気持ちが悪くなります。厄介。

こういう行動をして、好意的に捉えてくれる人や環境と、逆に全てにおいて否定してくる人や環境がキレイに分かれるのが面白いなぁと思いながらここまで生きてきました。そして、この性質は変えられない、治せそうにないことにも気付いてしまいました。たぶん無理やり押さえ込んだら精神崩壊する。

幸いなことに年々と、好意的に捉えてくれる場面が増えてきまして。そういう風に捉えてくれる場面ほど、私の思いも聞いてくれるけれど、相手も同じように思いを伝えてくれるので、お互いに納得のいく形に調整しながら物事を進めていくことが出来ているように感じています。

ひとまず関わってみないことにはその人やその環境がどういうものなのかはわかることは出来ないけれど、違和感を感じる場所との関わりは減らしていくという選択や行動は出来ると思います。ちょっと間違えると、甘やかしてもらえる環境にだけ依存しちゃうことにもなりかねないことに繋がってしまうことだけど、そうはならないぞの精神でギリギリ踏ん張りつつ、自分にとっても、関わり続けてくれる人や環境にとっても、より良くなりそうなことを試し続けられたらと思っています。

費用をいただくこと、支払うことにも経験が必要っぽい

お金って1つの記号でしかないとは思いつつ、金額の大小に関係なく、いただく側の時も支払う側の時も躊躇するよなと感じてます。基本的にはケチンボなので、誰かがオススメしてくれても自分に必要だと感じなかった場合は1円も払いたくはないですし、そんな考え方なので相手に対しても同じように何か違和感や躊躇う気持ちがあった際は、一旦時間をあけてよく考えてもらうことを提案することはし続けていけたらと思っています。

私は過去に自宅を建てた際に、視覚的な数字上でですが大きな額のお金が右から左へ動いていったのを目の当たりにし、一度価値観がバグったことがあります。0の数が多い数字を見てもなんだか実感が沸かず、バグったままでホイホイ好きな家具を買い足したりしては、後日のカードの請求を見て心がヒュッとする連続でした。若気の至りですね。楽しかったですね。

その時の経験もあって『自分も納得した上で誰かにしてもらったことに対価を支払うこと』に躊躇することは少なくなっては来たのですが、その逆に『自分がしたことで対価をもらうこと』には、未だにウニャウニャ悩むことも多くあります。

そう感じてしまう理由の1つかどうかはわかりませんが、いま私がさせてもらってることは『自分の出来ることを続けてきた延長線にあること』だからなのかなと思ったりもします。自分が強く望んでさせてもらってることかと言ったらちょっと迷いがあり、周りに流されながらいろいろと出来ることを増やして来れたので、この『全てが自分発信でしていることでは無いから』という他人任せな気持ちがいけないんだろうなぁと思っています。

こういう考え方って治るものなのか?
まだちょっとわからないので、もう少し様子を見ようそうしよう。

わがままを通すための配慮

自分のしたいことを周囲にも理解してもらうためには、敵ではないことを伝える努力も日々しておかなきゃいけないことなのかなと感じています。あわよくばそこから味方になってもらえたら嬉しいけれど、そこまで望むのはおこがましいので、ひとまずは『私はこうしたいけれど、それがあなたにとってマイナスになることがありそうな時は遠慮なく伝えて』の気持ちを、ちゃんと言葉にして伝えていくことは忘れないようにしていきたいと思います。

以前に輸入業をしている方の著書を読んだ時に(タイトルは忘れました)、『51対49で相手に勝たせられるように話を進めること』が誰かと長く良い関係を続けていきたいと願った時には大事なことだと書いてあったなぁーと記憶していて、なぜだか心に残っていることなので、自分の要望も叶えつつ、相手に迷惑をかけることや、何かを奪い過ぎるようなことはしないように気をつけて行きたいです。

発した言葉を発した時の温度感で受け取ってくれる人が周りに増えた気がすること

同じ言葉を使っても、聞く人や受け取ってくれる人のタイミング次第で、意味合いや感情がガラリと変わることがあるって経験を何度もしてきましたが、ここ最近は私が思っていたままの熱量で接してくれる人が周りに増えてきたように思います。

みんながみんな同じ道を歩んできたわけではないから、受け取り方も人それぞれであることが当然だっていうことももちろん知っているけれど、だからこそ、同じ温度感で受け取ってくれる存在が近くにいてくれることの安心感も大切にしていきたいと考えています。

変に合わせようとすること、合わせてくれようとすることって、何となく感覚的にわかってしまって居心地が悪いのはお互いにそうだと思うし、背伸びして合わせてみたくなることも時にはあるってこともわかるので、無理のない範囲での伸びしろ部分を楽しんでいけたらなと思っています。

現実で関わることの大切さ

SNSなどの画面上での関わりがどんどんと増えてきているなぁーという実感があります。そのおかげで出逢うことの出来た関わりもたくさんあるのは事実ですが、その最初の接点から深く掘り下げられるかどうかは、リアルな場で面と向かって一緒の時間を楽しむ経験を重ねていくことでしか深まりづらいのかなとも感じています。

画面越しよりも現実世界の方が、文字や言葉だけにとどまらない感覚的な情報が多く、情報過多で疲れることも多いけれど、近付いてくる情報全てが今の自分に必要なことでは無いことは理解できるようになってきたので、上手いこと取捨選択しながらバランスを取って、目の前で繰り広げられる愉快なやり取りを楽しんでいけたらと思っています。

今まで作らせていただいたものがきっかけの相談が急に増えた

今年は急激に増えたなぁと感じています。そうなった理由ははっきりとはわからないけれど、考えられることの1つとして、これまでにデザインで関わらせてもらった方々が、今も元気に活動を続けてくれているおかげだろうなぁと思っています。

ロゴでもチラシでも空間でも何でも、どんなデザインかは関係なく全てのデザインで、『完成したら終わりじゃなく、使ってもらってなんぼ』だと思っています。どんなに時間をかけて素敵に仕上げたデザインでも、使ってもらえないことにはゴミになったのと変わらないことかなと、私はそう感じながら作らせてもらっています。

自分が関わらせてもらったものは出来るだけそうはならないように、より長く使ってもらえるような工夫をしたり、誰かの記憶に残るようなものを作り続けられるようにはしておけたらと思うので、そのためには慣れた手法や表現の仕方だけに囚われすぎないように自分自身の引き出しもアップデートすることや、1つ1つ納得しながら進めていけるようなコミュニケーションの仕方を模索してみたりと、様々なことを楽しみながら行動し続けられたらと考えています。

忙しいぐらいの方が調子いい?

『縁側でお茶をしばきながら生き物を愛でたり、ゲームだけしていたい』気持ちはいにしえの昔から持ち合わせてはいるものの、あれこれやることがある時ほど、新たなやることを増やしてしまう癖があることに気付いてしまいました。なぜだかわからないけれど、何かしている時の方が周りのいろいろなことが気になってしまうし、気になったら片付けるまでそのことが忘れられない。困ったもんだ。

とはいえ体も頭も1つしかないので、私が関わった方がより良くなるものなのか他の誰かに任せられるものなのか、今すぐやった方が良いのか後でも良いのかなどなどを見極めながら、キャパオーバーにならないようにはしていきたいなと思います。これがまた難しいのだけど。


2024年の振り返りは以上!
ここからは2025年も意識しておきたいことたちです。

身近な人へほど丁寧な説明を忘れないこと

考えていることを伝えようとすると長くなりがちなため、めんどくさい人だと思われたくないことを言い訳に説明を端折ることも多々ありますが、そういう時ってやっぱり、コミュニケーションが上手く出来てなかったなぁと後から思うことがよくあります。

だからと言って、『説明』しようとしていたはずが、いつの間にか『説得』に変わっていることも多々あって。だけどそれはお互いの考えを尊重するためにはあまり良くないことのように感じるので、今じゃない雰囲気を感じたら一旦置いておく選択肢も忘れないようにしたいなと思っています。

お互いの利益になることを意識しておくこと

『利益』というと何となくお金や物などの目に見えることが最初に脳内を走り抜けますが、それだけじゃなくて『時間』とか『経験』といった形に残らないものも含めて大事にしていきたいと思っています。

お金や物をもらうなどの目で見て確認しやすいものは、即効性のある充足感を得られやすいけれど、物足りなくなるまでの時間も早いように感じています。強欲な人間ですからね。

時間や経験などの形には残らない概念的なものは、自分の利益になってたってことを感じるまでにものすごく時間がかかるけれど、そのことに気付けるようになった後の持続力はとても強く、応用もしやすいので、1つの場所から広がりやすいような気もしています。まだあんまり上手く伝えられていない気がするけれど、忘れないでおきたい要素です。

少しでも良くなりそうな方を選んでいきたい

目の前にある課題に対して、今よりも良くなりそうな選択をしていけたらと思っています。良くなるための方法はその時の自分にとっては大変なものの場合もあれば、楽なものの時もあるだろうし、1人だけで解決出来ることでは無いかもしれないけれど、この先が良くなっていかないことには生きててもつまらないと私は思っているので、その時その時を楽しみながら良くしていけるように工夫していきたいです。

実験を重ねて引き出しを増やしておく

何かの依頼を請けたら、期日までに安心安全に納品出来ることを提案することが私の役割の1つでもあるけれど、安心安全ばかりにフォーカスしすぎると、いつも同じ解決策しか使わなくなってしまいがちで。

同じ解決策を試し続けて、回数を重ねるごとに深めていって、そのことのスペシャリストになる道もあるんだろうけれど、性格的に『あれもやりたい!これもいいな!』とホイホイ目移りしちゃう尻の軽さがありスペシャリスト道は向いていないようにも感じているので、気持ちの赴くままに様々なことを個人的に密かに試しつつ、誰かの役に立てる機会に遭遇した時には『余裕でこれずっとやってましたけど?』と平然とした顔をしながら、新しく身につけた解決策を自信を持って提案できるようにもしておきたいと思います。

小さな変化にも気付けるようで在りたい

自分にとっての大きな変化は記憶にも残りやすいけれど、数が少ないからこそ覚えていられるのだと思います。そういう大きな変化を追いかけることも大事だけれど、それよりも圧倒的に数の多い小さな変化も見過ごさずに拾い上げていきたいです。

1つ1つは小さくても、数がまとまると結構な大きさになることは、小学校の国語の授業でスイミーに教えてもらったので、その教えを胸に少しずつ積み上げていけたらと思います。

感情的にならない感情の伝え方の習得

円滑に物事を進めていく上では感情は邪魔なものでしかないということを頭ではわかっていても、どうしたって人間なので、恐らく全ての感情を完全OFFすることは無理だろうなぁという気もしています。

だからといって何も感じていない訳では無いし、感情の昂りのままにワーワー騒ぐのはどうにも子供っぽくて出来るだけやりたくはないし…。また、適切に伝えることの出来た感情によってより円滑に物事が進んでいった経験もあるので、良くも悪くも伝え方次第でどうとでも転がってしまう要素なんだろうなと感じています。

感情的にならない感情の伝え方となると、たぶんですが『事実9割/お気持ち1割』ぐらいの割合で言葉を綴りながら伝えると良いように思っています。同じ事実を目の当たりにしても感じ方は人それぞれだってことを忘れないようにしながら、荒ぶる心を制御していきたい所存。

それと時と場合によっては『真剣な顔しながら黙ること』も大事なのかなと。怒りとも諦めともまた違う、目の前に投げつけられた事柄に対して、一切関与しないよ受け取らないよっていう意思表示には効果的なようにも感じています。
…とは言っても基本ヘラヘラとしているので、すぐに上手く出来るわけも無いのですが、誰かとコミュニケーション出来るタイミングがあった時にここぞとばかりにいろいろと試していけたらと思っています。トライアンドエラーだいじ。

目指すは『淡々としているのに人間味のあるコミュニケーション』かな?言っていても何だかよくわからないけれど。

行儀の悪いことはしない、関わらない

新しいことにはいろいろチャレンジはしていきたいとは思いつつ、全てのことには触手が向かないことも多々あります。たぶん何かしらの違和感を感じたから『う〜ん…』と立ち止まってしまったのだと思うので、そういう違和感?野性の勘?みたいな感覚は、これからも無視しないようにしていきたいなと思っています。

言葉にしづらい感覚的な話だけれど、こういう違和感を無視し続けると、それまでは大事にしていたはずのいろいろな感覚が衰えていくような気もしていて、ひいてはそれが周りで良くしてくれている人たちにも不利益を招いてしまうことにも繋がっていくようにも思います。

自分だけが損をするのは仕方の無い時もあるけれど、誰かを巻き添えにするのは本望では無いので、1つ1つの行動を見極めながらしていきたいです。

手を差し伸べるかどうかの見極め

『自分がやった方が早いよな』って思うことも多々ありますが、基本はドライで、万が一の時だけヘルプするぐらいで接するのがちょうど良いんだろうなと最近は思い直してきました。

私の両親は元々金融関係の職場に勤めていたため、まだ私が実家に住んでいた時は銀行に関する手続きだったり貯金に関することだったりのほとんどを、知らぬうちに先回りして整えてくれていた感覚があります。また、母はお裁縫が得意だったので、服がほつれたり、学校で使う雑巾の用意だったりも、全ていつの間にかキレイに仕上げてくれていました。

その結果仕上がったのが現在の私で、銀行関係のあれこれはチンプンカンプン、玉結びも人並みには出来ない裁縫苦手人間に立派に成長しました。はっはっはー。『その節はお世話になりました』という感謝の気持ちはありますよ、一応。えぇ。

今も出来ない理由はそれだけじゃないだろうし、他人さまのせいにするのは良くないとは思いつつ、この出来事もきっかけの1つとなり、先人が手を差し伸べ過ぎるのもどうなんだろうなという疑問を持てるようにはなれました。

出来ないことは出来ないなりにどうにかはなるし、自分以外は全員他人なのでいつまでも助け続けることは出来ないし、各々が出来ることが増えていった方が生きていく上での選択肢も増えるだろうし、手を差し伸べ過ぎることはその行動によって、相手のこれからの楽しみや、それをやるかやらないかも含めての決定権を奪ってしまうことにも繋がってしまうように思います。

基本的におせっかいなため、気になって手助けしたくなることも多々あるけれど、グッと堪えて基本は遠くから見守るスタンスで、相手から助けを求められた時にだけはすぐ動けるような姿勢では居続けることが目標です。

言葉と行動は揃えておきたい

自分のことでも周囲のことでも『言ってることとやってることが違うやーん』がとても気になる性分で。昔よりは間のグレーな部分も許容出来るようにはなっては来たものの、出来る限りは自分の発する言葉と行動の方向性は揃えておきたいなと思っています。

こんな性分だから組織に属した働き方が向いてなかったことにも繋がるのですが、ホンネとタテマエがあることを前提としたコミュニケーションをし続けてしまうと、自分自身が本当は何をしたかったのかがわからなくなっていく感覚があります。それを良しとする文化もあること、それがあるからこそ円滑に進んでいくことがあることも否定はしないですが、今の私にとっては窮屈に感じることの方が多いようにも思うので、自分が息をし続けられるようにはしておけたらなと思います。

自分が嬉しかったことを周りにもしていきたい

今年言ってもらえて嬉しかったことは、友人と遊ぶ約束をした際に『楽しみが増えた!』と言ってもらえたことと、長く仕事でお世話になった方がその職場を離れるとのことで連絡をもらった際に『もっと活動してる姿を見守っていたかった』と伝えられたこと。この2つのことが記憶に残っています。

そうやって記憶に残るぐらい嬉しかったことは、自分の周りにも率先して、していきたいなと思っています。率先しすぎると空回りしたり、やろぞーやるぞーと無駄にニヤニヤ顔に出てしまうことも多いので、出来る限り自然に行えるように虎視眈々と平常心を保ちながらやっていけたらなぁと。

自分の選んだことに言い訳をしないでいたい

調子が悪いとウジウジぐちぐちとしがちですが、どんな状況だとしても、そうすること、そこにいることを選んでいるのは自分だということを忘れないでおきたいと思います。

この先の道は自分自身で選べるはずなのに、誰かや何かのせいにしながら居心地の悪い状況に居続けることは、周りに依存し過ぎてしまっていることだと私は思うので、覚悟を決めなきゃいけない時に最善の覚悟が決められるような体と精神のゆとりを持ち続けられるようにしておきたいと思っています。

私もみんなも健康であれ

『元気があれば何でも出来る』と、某・猪木師匠も言っておりましたが、本当にそうだと思う今日この頃です。何かやりたいことがあっても元気が無いと何も出来ない→余計に元気無くなるの負の無限ループに突入するのは避けたいので、それぞれの健康さを保てるように、私もそこのあなたもしておいてもらえたらと思います。

私個人的には『知らないことは知らないままの方が諸々の健康が保てる』ことを言い訳に、健康診断などにはあまり行っていませんが、何か気になる症状などあれば言い訳せずに病院へ行ってみようとは思っています。可能な限り注射とは触れ合いたくないけれど。また、もうすっかり日課になった散歩習慣と、定期的に通っている整骨院でのマッサージをこれからも続けられるようにしておきたいです。

人によって体力も気力も身体の丈夫さも異なるので、何をして何をしないことが正解なのかは人それぞれだけど、各々可能な限り長生きしような。


ここのところお会いした方に『ブログ読みました!』と伝えられることがちょこちょこと増えてきまして、少しヒュッと背筋が伸びる感覚があります。変なことは書いてはいないつもりだけれど、間違った捉え方をしていることも多々ある自覚はあるので、『こいつヤバい方向に進んでいるな』と感じた時にはご一報いただけたら有難いです。マジで。

これを書いている本人も当初は『あとで読み返すために』の気持ちもあって一年の振り返りをすることを始めたのですが、始めてみてからわかったことは『本人ほとんど読み返さない』ということ。頭の中でグルグル考えていることを一旦外に出すことで、一度忘れて頭をからっぽにする場所としては機能してそうなので、これからもそういった使い方になるんじゃ無いかな?どうかな?


2024年もたくさん関わっていただきありがとうございました!
2025年もご迷惑かけることばかりだとは思いますが、なるべく減らしていけるように精進したい気持ちはあるので、生温かい目で見守っていただけたら何よりでございます。

ここまで読んでくださった方に最上級の幸が舞い込みますよーに!
それでは皆さま、良いお年をお迎えくださいね!

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